最近,勉強がてら,近代文学を読み直すことにしております.
一応,これまで有名作品は一通り読んだつもりなのですが,今改めて読み返すと,「あれ,こういう話だっけ?」と感じることが多々あります.年齢によって,受け取り方が変わるのでしょうね.
太宰についても,苦手意識があったのですが,最近読んでみて,「ちょっと好きかも……」と思えるようになりました.
特に,太宰では女性目線で書かれた作品が好きです.なんでそんな女心が分かるの? と尋ねたくなります.
今回紹介する『きりぎりす』も,女性目線で書かれた作品.
内容に関してネタバレ要素があります。
苦手な方はブラウザバックをしてください!
「おわかれ致します。あなたは、嘘ばかりついていました。」
冒頭から,何とも衝撃的な書き出しです.
これは,売れない画家の所に嫁いだ女の,三行半とも言うべき手紙でしょうか.まあ,三行半どころか,20ページに渡り長々と男への文句を書き連ねているわけですが.
【あらすじ】
はじめは,全く売れない,貧乏画家だった男.その男の画を見たとき,女は強い衝撃をうける.「どうしても,あなたのとこへ,お嫁に行かなければ」と思い,家族の反対を押し切って,男のもとへ嫁いだのだ.女は,貧乏でも嬉しかった.というより,貧乏であることを喜んでいた.俗世間に染まらず,貧しくとも他人に迎合せず,自分の思うままに生きる男に惚れたのだ.そしてそれ以上に,「私でなければ,お嫁にいけないような」人のもとで,どこまでも尽くして生きる生き方に魅せられていたのだろう.
そんな女の予想とは裏腹に,男の画は思いがけず高い評価を得ることとなる.はじめのうちは,女も男の成功を喜んだ.しかし,生活が豊かになるにしたがって,男の性根が変わってくる.次第に傲慢になる男に対し,女は憎しみすら抱くようになり,別れを告げたのであった.
【感想】
とまあ,平たく(今風に?)言えば,ダメンズ好きな女性が貧乏夢追い人に嫁ぐが,思いがけず男が成功しちゃって,生活の質と男の正確が変わった.そんな変化に嫌気がさして,とうとう我慢ならず別れをつきつけた,という話です.
……とか言うと,太宰ファンからお叱りをいただきそうだ.
しかしこの女の心情,共感できる部分は多いように思います.
「この人には私しかいないのだ」なんて思ってしまうと,どんなにダメな,生活能力のない男(女)でも,見捨てられない気持ちになるのではないでしょうか?
それどころか,ますます深みにはまってしまう……DVの共依存に近い考え方ですが.
特に,こういう「夢追い系」に女性は弱いですね.
ただ,普通ならばそこで堅実な考えが働きます.特に女はそうです.
将来のこと,子どものこと,老後のこと,親のこと……色々考えた末に,「やっぱ無理!」となるわけです.
この女性が普通と違ったのは,第一に,彼女が恐らく良いところのお嬢様だったことに起因するでしょう.
彼女は恐ろしく世間知らずで,無知で,それ故ひどく純粋でした.だからこそ,自分の理想に生きることができた.後先考えず,情熱に身をゆだねて,男に嫁ぐことができた.
そしてまた,男のもとを去るときも,周りの意見や評価などは関係ない,自分の情熱に任せたまま行動することができたのです.
しかし,こういう時,普通は建前だけでも「稼ぎはなくても性格が良いから」「いつか売れるから」なんて言うものでしょうが,彼女は「私でなければダメな人のところにお嫁に行きたい」とはっきり明言しています.
なんて馬鹿正直な……!
これを言われた男は傷つきますね,色々な意味で.
まあでも,これも本音ですが,男に愛情があったのも本当でしょう.
こういう夢見がちというか,普通の人が建前の裏に隠す理想をはっきり言葉にしちゃうところからも,「お嬢様」感が漂っているように感じられます.
また,この女が本来持つ
自分の絶対的な信念や価値観を,周りに影響されず,自分の中に持ち続けることができる人は,そう多くはいません.
普通ならば,男が変わっていくのと同時に,女もまた変わっていくはずだったのです.
しかし,女だけは変わらなかった.変われなかった.
彼女は最初から最後まで,自分の信ずるものを固く守って生きた.だからこそ,男の変容が許せなかったのでしょう.
そういう情熱的な人の生き方は,羨ましくも,哀れにも思えてしまいます.
今は,逆の話ならよく聞きますけどね.
「結婚してから妻が変わった」
「昔は俺の夢を応援してくれていたのに,子どもが生まれたとたんに,仕事に就けだとか,稼ぎが少ないとか愚痴ばかり言うようになった」
とかね(笑)
もしかすると,この女も,結婚して何十年もたった後で,あるいは子どもが生まれていたりしたら,上記のようなリアリスティックな「奥様」になることができたのかもしれません.
その方がみんな幸せだっただろうな,とも思います.
さて,この話,久々に読んだのですが,終始,仲間由紀恵さんの声で脳内再生されました.
NHKの朝ドラ「花子とアン」に出てきた白蓮と非常にイメージがかぶります.ぜひ仲間さんに朗読していただきたい……(笑)
皆さんも,『きりぎりす』を読むときは,蓮様ボイスを想像しながら読むとグッとくるかもしれません(笑)
またまた話は変わりますが,題の『きりぎりす』について.
これは,最後のこんな文章に由来します.
電気を消して,ひとりで仰向に寝ていると,背筋の下で,こおろぎが懸命に鳴いていました.縁の下で鳴いているのですけれど,それが,ちょうど私の背筋の真下あたりで鳴いているので,なんだか私の背骨の中で小さいきりぎりすが鳴いているような気がするのでした.この小さい,幽かな声を一生忘れずに,背骨にしまって生きていこうと思いました.
お気づきになりましたか?
「”こおろぎ”が”きりぎりす”になっとる.何でや!」
……最初に読んだときに,私はそう突っ込みました(笑).
この機会にと思ってちょっと調べたところ,コオロギとキリギリスの区別って,平安~鎌倉時代頃まで曖昧だったらしいですね.
なんでも,今でいうコオロギは「きりぎりす」と呼んでいて,キリギリスを「ハタオリ」と呼んでいたらしいです.
なんじゃそりゃ,ややこしいわ.
もしかしたら太宰も,その辺りの区別は適当だった可能性があります(笑).
まあ,きちんと解釈するなら,キリギリスは「アリとキリギリス」の寓話で有名なように,怠け者の享楽主義者というイメージがあるので,贅沢を享受している男やそれを取り巻く人々を皮肉っていると考えられます.
加えて,キリギリスは昼間に鳴く,騒がしく力強い印象です.しかも肉食(私も,キリギリスを捕まえようとして指をかまれた思い出が……).
太宰も,自身の裕福な生まれを憎んでいましたから,そういう捉え方は妥当だと思います.
一方のコオロギは,夜に静かに鳴く虫です.
それが懸命に鳴いているのを聞き,「私」はキリギリスを思い出すわけですね.
ここで”コオロギ”を”キリギリス”と対立する存在としてとると,懸命に鳴くコオロギ=世間に抗おうとする「私」の信念・生き方となるわけですが…….
じゃあ,”キリギリスの声を背骨にしまう”,とはどういう意味なのでしょうか.
夫のことを,出会いから変貌し,別れる瞬間までを含めて,忘れないでおこうということなのか.
はたまた,女自身の中にも「キリギリスの鳴き声」が,つまり周囲に流されて,享楽的に生きようとする心がひっそりと存在していて,それをしまい込んで押し殺そうとしているのか.
色々と捉え方はありそうです.
しかし,冒頭でも述べましたが,太宰は女性目線で描かれた作品が特に素晴らしいですね.
また違う太宰作品についても読み返してみたいところです.
初回の投稿だからと調子に乗ってだらだらと長文書き過ぎました.
次回はもっと簡潔にまとめます!
それでは,閲覧ありがとうございました!